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<分科会B 発言録>
[猪木] 外からのショックや人材を吸収するような度量も必要。
[佐々木] 金沢の文化的厚みを増すことが、企業の再生につながる。


(米沢)金沢経済同友会の都市活性化の委員長をしております米沢です。今回、金沢ラウンド「「記憶」に学ぶ」というテーマで、この分科会Bは経済を切っていただこうと思っています。  私も企業人として、これから先、自分でも進路が見えないで焦っているわけですが、今、分科会Aの中で、加賀藩は全国に並びではなくて、独自の路線を敷いてきたと。そして、町の中でそれぞれが競い合って発展していったと。私も金沢を見ていますと、佐々木先生がお書きになった「都市型の内発的発展」というのは金沢にあてはまるのではないかということを20年ほど前までは思っていたのですが、ここへ来て、金沢の経済も独自性といいますか活力を失っております。私自身、暗闇の中で船を出すときの羅針盤といいますか、灯台の光になるようなものを、この分科会の中からヒントを与えていただければと思っています。
(佐々木)実は、2年前に猪木さんとフィレンツェで会ったのです。猪木さんは労働経済学の専門で、私の師匠は島恭彦という財政学の先生でしたが、猪木さんの師匠は青山秀夫というマックス・ウェーバーの専門家で、それぞれ大変学識のある師匠です。フィレンツェで会ったときは、非常に印象的な会議でありまして、EUと日本の学者と政治家と官僚の人たち、経済人が一堂に会して、これからのグローバリゼーションの中でそれぞれがどのような経済の発展を目指すのかを議論しました。  そこに、フィレンツェの有名な経済人のロベルト・グッチさんという人が来ておられました。グッチさんは、皆さん、グッチのカバンやグッチのデザインの入ったものをお持ちだと思いますが、名門中の名門企業なのですが、いろいろな問題に巻き込まれて、そのブランドを売ってしまったわけです。それで、グッチさんは新たにハウス・オブ・フローレンスという別 のブランドを作って、再出発をされておられました。  その話のあと、私も猪木さんもグッチさんのお屋敷に招かれました。それは大変印象的な出来事で、またあとで詳しくお話ししたいと思います。グッチさんがフィレンツェのかつての貴族の館を自分の別 荘にして、11〜12世紀の古い館を今も大事に使っておられる。「これが私のアイデンティティです」と言われました。グローバル化した社会の中で、古い文化財のようなお宅を守りながら国際社会で企業を展開されている姿に、私は非常に感銘を受けました。そのときに私は猪木さんとも初めてお会いしたのです。  これから都市がグローバリゼーションの中で翻弄される、かつてない困難が待ち受けているわけですが、そういう中で、将来の方向を見失うようなときがあっても、どこか立ち戻るべきアイデンティティのようなものが必要だろうと思うのです。そうしたものを持っている強みをヨーロッパの都市の中に見いだすことができたのです。
(猪木)私は仕事の関係からも、あるいはツーリストとしても外国にときどき行くわけですが、フィレンツェそのものの思い出というだけではなくて、私が外国に行ってよく感じることをまず2〜3申し上げたいと思います。  今日の議論、金沢と京都とか大阪とか、あるいはグローバリゼーションの問題、東京の一極集中の問題等あとで出ると思いますが、私が大学院を出て経済学の研究者になろうと思ったころに非常に流行した議論がありました。ちょうど日本の高度成長が一段落した時期ですが、肯定的な意味でも否定的な意味でも、日本の社会は特殊だという議論が非常に盛んに行われたのです。いわゆる日本人論といいますか。本当かなと思うような、いったいどれだけ調べてこういうことがいえるのかという議論も中にはありました。  私は専門が労働ですから、生産現場を調べます。最初は主にブルーカラーの労働者の人たちの仕事がどのように分かれていて、どのような配置があって、昇進と選抜がいかに行われていくか。その仕事の評価、報酬のシステム。これは昇進や賃金に反映されるわけですが、それを日本と東南アジア(主にタイ、マレーシア)、また、オーストラリア、ヨーロッパなどいくつかの外国の国と比較してみようという仕事をしてきました。今はホワイトカラーの国際比較の仕事をやっています。  そういう作業をしてわかるのは、言語そのものや慣行が国によって違うことは確かなのですが、いわれているほど違わないと。ある一つのものを作る、すなわち工作機械を使って何かを削ったり測ったりしていく場合に、どういうかたちで仕事を覚えていくかという全体のシステムとして見た場合に、そんなに違わないということです。  我々は外国というと、海の向こうのアメリカと縁が非常に深いわけですから、アメリカのことを想定して、アメリカと日本を比べると日本はだいぶ変わった国だという結論にどうしてもなってしまうわけです。しかし、実はアジア、ヨーロッパ、おそらく南米やアフリカ、そういう全体のところに置いてみると、日本の何が普遍的なものであって、何が特徴かということを考えることが必要なのです。  アメリカは移民で成立した国ですから、少なくとも労働市場の構造をいいますと、アメリカ、カナダ、オーストラリア等の国が世界の標準からいうと外れている。日本は、むしろ大陸ヨーロッパ(フランス、ドイツ)などとかなり似た企業内の労働の配置や訓練のシステムを持っている国だということが徐々にわかってきました。ですから、アメリカは大事だけれども、アメリカと比べることだけによって日本を特殊だというのは少し危ないということです。  もう1つは、これも第1点とかかわるのですが、フローレンスでもそうでした。いろいろな美術品、工芸品などを見て、音楽でもそうだと思いますが、いいものはいいと。人物も、なかなかいい人がどこの国にもいる。おかしな人もどこの国にもいる。割合が違うかもしれませんが、そんなに違わないのではないかという感じです。記憶が不正確かもしれませんが、以前に金沢に来たときに、壇風園という博物館を見せてもらったことがあるのです。驚いたと同時にうれしかったのは、そのショーケースの中にフランスの人類学者のレヴィ・ストロースが、確かエッチングだったと思いますが寄贈しておられるのです。その説明にレヴィ・ストロースが金沢に来て、金沢のいろいろな道具、工具、生活に用いるような伝統工芸品の技術レベルの高さに驚いて感激した。感激して、自らの銅板画を寄贈したという説明がありました。ですから、外国人が見ても日本のいいものはいいと思うし、それは日本の中でも中長期的には評価されるものだと、私自身、このような一般 的な事実に関して自信を持っていいのではないかと思ったことを覚えています。  もう1点は、これも外国と比較すると、技術や知識を持っていることと、産業が発達することは別 だということです。何か新しいタイプの数値制御の工作機械が現れたとして、その作動メカニズムを理解していることと、それを使っていろいろなものを作っていけること、その技術が採用されるかどうかは別 だということです。蒸気の知識は古代ローマの貴族などは知っていて、おもちゃを作っているそうです。アレキサンドリアのヘロンがそういうものを作ったということを本で読んだことがあります。しかし、蒸気の知識を持っていても、実際に産業革命が起こるのは18世紀です。要するに、そういう知識を持っているだけでなく、周辺にそういうものをサポートするぐらいの技術の広がりがあるかということなのです。あるいは中堅の企業でそういう人材を育てているのか。そういう広がりがないと産業はうまく発達しない。これはどこの国でもそうです。  今は技術、知識自体はものすごい速度で伝わりますから、字なり科学的な式で理解できますが、それを産業化できるかどうかは、人材および周辺のサポートする技術がないとだめだと十分に知らされました。フローレンスでも、あの文化遺産の厚みに圧倒されました。ですから、アメリカのよさから学ぶことがありますが、同時に批判的に見ることも必要なのです。ヨーロッパもすべてうまくいっているわけではないですから、そういう意味で外国なりを知る、あるいは、国内でもほかのケースをたくさん知っておくことは大事ではないかと思います。

(佐々木)今言われたように、我々研究者というのは、例えば私も金沢に15年いたとき金沢の経済の研究をしたわけですが、その金沢の経済の特徴を知るために、例えば東京と比べるとか、名古屋と比べるとか、大阪と比べるとか、あるいは京都と比べるとか、いろいろなやり方があるのです。しかし、東京や大阪と比べるには、金沢の経済はあまりにも小さすぎて量 で測ると話にならないのです。名古屋と比べても、ここは名古屋とは非常に深い関係があって、前田利家は織田信長の家来で名古屋から来たわけです。私も名古屋の大須の出身なので、名古屋とこちらの関係には深いものがあるのですが、結局、日本のほかの都市と比べて金沢の特徴を明らかにするというよりは、むしろイタリアの都市と比べる中で、金沢の経済の特徴がよりわかるなと思ったのです。  それで、2年前にボローニャというところに留学して、ボローニャという町と金沢の経済を比べてみる中で、何か共通 に見えてくるものがあったというのが実感なのです。実は、フィレンツェもボローニャもよく似た構造です。イタリアのフィレンツェ、ボローニャ、ベニスあたりは人口が40万前後なのです。金沢は今45万です。45万の都市というのは、日本では人口でいくと30番目ぐらいです。全然お話にならないわけです。ところが、ヨーロッパにおりますと、100万を超える都市は例外的で、大体40〜50万ぐらいの都市でまとまった経済圏を持っており、文化的にも非常に高いものがあって、都市としての歴史にみんな誇りを持っています。町の中心部にある歴史的なものは全部きちんと保存されていますし、その町の産業の発展史が具体的にわかりやすいかたちで、工場の跡が残っていたり、工場の中に博物館が造られていたりして、人々が日常生活の中で町の産業の記憶がきちんと理解できるといいましょうか、記憶がつながっていくということがあるように思います。  中でも、アメリカと比べたときに、ヨーロッパの都市はいずれも中世の個性的な都市国家の時代が長くあります。そして、そういう都市の中では職人的な物づくりがベースにあったわけです。その職人的な物づくりというものをベースにしながら近代化してくるという流れです。ですから、いきなり大量 生産の技術が入ってきて、急激に大都市をつくってきたという戦後日本の高度成長とは少し違う、実に息の長い都市経済の発展のしかたを、職人的なクラフト生産の中にヨーロッパの都市が見いだしている。金沢という町もその線で分析した方がわかりやすいと思ったのです。  例えば、グッチのカバンでも職人的な物づくりの代表選手ですし、私がいたボローニャのすぐ近くにはフェラーリの工場があります。それから、ドゥカチというオートバイもあります。ドゥカチやフェラーリというのは、ものすごいプロのレーサーがあこがれるスペシャリティの高い物づくりで、職人的な部品の精度が要求されるのですが、そういうものができる。決して大量 生産ではないけれども、しかし、世界的に誇れるものができる。大きな工場でなくて小さな工場で熟練した物づくりの担い手たちがいる。これは、金沢を分析するときに非常に大事になることではないかと思ったのが1つです。  もう1つは、今のグローバリゼーションとの関係で思うことなのですが、先程のフィレンツェでの会議のときも、ヨーロッパの知識人はグローバリゼーション=アメリカナイゼーションではないということを、当時も非常に強く主張していました。猪木さんと私の共通 の友人ですが、ロナルド・ドーアという辛口の、イギリス人だけど日本語がペラペラできて、しばしば日本に来て日本の新聞にも論評を書いている社会学者がいます。この人は、実はボローニャの山の中に山荘を持っている国際人なのですが、彼が最近の新聞の中で「21世紀というのは9月11日から始まったと考えた方がいい」と言っているのです。つまり、アメリカの世紀が終わったということが21世紀だと。同時に、パックス・アメリカーナという、つまり、アメリカ一国がリーダーになって平和を維持できるということも、もう終わりだと。それは「新しい混沌の世紀」の始まりであり、同時に、大量 生産・大量消費型の資本主義社会というものも制度疲労を来した。そういう意味でも、新しい幕開けである。  ということは、グローバリゼーションというものが新しい段階へ入ってくる。つまり、アメリカがリードするかたちでのグローバリゼーションではなく、もっと多様な国々、あるいは国というよりは都市や地域かもしれませんが、そういう多様性のある社会、あるいは多様性を認め合う(文明間の対話のようなこと)段階に入ってきている。そう考えたときに、20世紀型の大量 生産社会に飲み込まれていない、クラフト型の生産とちょうどよいサイズの都市の広がりを持っている金沢というところに、もう一度21世紀型の経済社会、あるいは都市経済のタイプの可能性が開けてきているかなと、ヨーロッパを見ながらつくづく思ったのですが、これはどう思いますか。
(猪木)そうですね。グローバリゼーションとよくいわれますが、今、佐々木さんがおっしゃったように、そういうキャッチフレーズにあまり惑わされないようにというのは私も同感です。量 においてもスピードにおいても、ものすごい情報が行き来するようになりましたから、その面 での技術的な変化、および主に通信や交通面の変化が非常に大きい影響を経済に与えていることは事実ですが、一般 に商品の貿易で、一国で作っているサービス以外の商品生産の価値額から見ると、今、貿易で行き来している額というのは第1次大戦が始まる前に比べると、国によって異なりますがそんなに変わらないわけです。ということは、金本位 制が19世紀の後半ぐらいから世界的な傾向になって、第1次大戦が始まるぐらいの期間をとった場合の商品貿易の量 と全体の生産額の比を考えると、ここ10〜20年とそれほど変化がないどころか、むしろ昔の時期の方が多かったという国もあります。ですから、そんなに物がどんどん行き交って、摩擦がゼロみたいにぴょんぴょん物が飛び交っているわけではないということです。もちろん、サービス業の比重は大きくなっていますから、全体として見ると少し情勢は変わると思います。  もう1つは、人が移動するといいますが、極端な専門職、例えばピアニストとか物理の研究者など非常に専門性の高い職業の人と、逆に技能水準が低い労働に従事している人、この2つの両極端は歴史的に見て移動がずっと激しくなっています。企業で働くとか行政に携わるとか学校で教えるとか、そういう普通 の生活を送っている人たちの移動は、EUの中でも非常に率が低いということです。マネージャーのトップクラスの人が動くということはありますが。ですから、私はグローバリゼーションをあまり強調しすぎることは問題ではないかと思います。逆に、グローバル化していないといいますか、閉鎖的な社会の利点みたいなものも知ることも大事です。閉鎖的というと、一般 に保守的で生産的でない、あるいは革新的でないというように理解されますが、必ずしもそうではない。  私は、昨日申しましたように56年の生涯で京都に住んでいるのが一番長いのです。三十数年京都におります。もっとも母が東京ですから、京都の人からは京都人だと思われないし、関東の人からも関東人だと思われないという、東西の谷間に落ちたような人間なのですが、それでも京都に関してはいろいろな地の利、土地勘があっていろいろな話を聞く機会があるのです。  先日、神戸大学で経営学を教えておられる加護野さんと話す機会があって、なるほどなと思われるような指摘を彼がされていたのでご紹介します。京都には今、オムロン、京セラ、任天堂、村田製作所、ワコール、イタリアードなど、製造関係、服飾関係でも新しい革新的な企業が出てきています。京都は保守的なのに、わりに新しい分野に革新的な事業を展開する人もちょいちょい出るなという認識しか私は持っていなかったのですが、加護野さんは、おそらく京都の閉鎖性と、特に戦後かなりクリエイティブな企業人が京都から出たことはかなり関係が深いのではないかという説明をされているのです。私流に換骨奪胎してポイントだけ申し上げますと、例えば呉服といいますか絹などは京都には伝統的に友禅などがあり、それで金沢と縁があると聞いていますが、常に衰退し、だれかが革新的なことをやってまた浮上することを繰り返していると。その過程で市原亀之助という人の話をしておられました。  彼が京都で別家といいますか、分かれて商売を始めるまでにした人間的な苦労が、一般 的には根性ものみたいにいわれていて私はあまり好きではない部分だったのですが、閉鎖的というのは、取引関係が長期の信用を大事にするということです。そういうネットワークが張りめぐらされた社会の中で、新たな事業を興すのは非常に難しい。ですから、若いときに苦労させられて、どれだけ自分が信用ある人間かということを、新たに開拓する取引先に認めてもらわなければならないというプロセスがあるというわけです。  同時に、別家して独立してどういう事業に進むかという場合に、呉服関係は老舗との取引関係ができてしまっていて、例えば百貨店でいいますと高島屋に入れているところはどうだとか、漬物などでも全部そうなっているみたいです。そこに食い込むには、同じものをやっていてはだめだ。ということは、少し産地が違うものを選ぶということで、市原亀之助の場合には大島紬をやったらしいです。自分の主人は十日町の織物の卸をしていたそうですが、産地の違うところを開拓して大島紬をやった。  そのように2つの条件として、保守的・閉鎖的であったからこそ、そういう人格の評価を得るというプロセスと、革新的といいますか、織物の場合、どこの産地ということが非常に重要になるようですから、そういう面 で新しいステップを踏み出すという、その2つのプロセスがかなりの業種で見られるということです。  村田製作所は皆さんもご存じだと思いますが、そこでも似たようなことがあったそうです。村田昭さんという創業者がいて、今の2代目にあたる方がお父さんの仕事を継ごうとしたときに、「これはあまり将来性がないし、マーケットも限られている、もっと大々的にやりたい」と言ったら、その親父さんが「今までやっていたものと同じもので価格競争だけをやるな」と。碍子(がいし)を作っているわけですが、それを納めている大阪の電気機器、配電等のメーカーはどこが納入しているかを全部お互い知っているわけです。ですから、そこで単に顧客の取り合いをして勝っても、共倒れになる可能性があるだけで意味がない。ですから、セラミック技術と電子技術を結合するというかたちで新しいところを開拓せざるをえなかった。  それは閉鎖的な社会で人間が生きていくときにはやはり知恵がいりますから、そういうかたちでむしろ閉鎖性と革新性みたいなものを矛盾しないように利用した。すべてがそうだというのは暴論になりますが、最近はあまりいわれませんが、シリコンバレーモデル、つまり投資家が企業家を助けるというタイプではない。これは日本ですべてうまくいくとは限りません。顧客が企業家にイノベーションするための知恵を与えるといいますか、呉服の例でいうと、卸の方が小売の一種の購買部みたいなかたちでイノベーションの可能性を教え合うというタイプです。  京都の今申し上げた例を見ますと、グローバルにすべて人が行き来し、アイディアが飛び交い、何かが自由にできるというのは、意外に現実的ではなくて、むしろ創造的・独創的な考え方というのはかなり強い制約のもとで、知恵か豊かな想像力かわかりませんが、何かを絞って出てきたものが意外に多いのではないか。それは、先程申し上げましたが、いろいろな企業が戦後たくさん現れたことと関係がある。あとでたぶんお話が出ると思いますが、それを可能にする伝統的な技術もあったことが大前提ではないかと思います。

(佐々木)今言われた都市の閉鎖性というのでしょうね。別の表現をすると、都市の中で域内循環がかなり濃密に行われている。京都というのはそういう町だと思うのです。例えば今、説明があったような和装の産業で見ますと、西陣織と友禅の現場の生産機能から、それを企画する、あるいは全国流通 に乗せる機能をワンセットで全部取り込んでいます。そういう産地的要素のあらゆるものを全部京都の和装産業は持っていたわけです。そこには絶えず情報が飛び交っていて、情報が非常に細かく産地の中で差別 化されていくようなものがあった。つまり、アイディアが熟すというか。だから、成熟型のものができるという方向だったと思うのです。そこでアイディアを競い合う。知恵がある社会ですから、同業者どうしが価格競争で同じものを作って、価格競争で共倒れをするということは避け合う。だから、暖簾分けをするときは必ず違う品物を扱う、あるいは違うデザインのものを作る。こういう不文律みたいなものが成熟社会の中にあると思うのです。  イタリアを見ますと、イタリアもそうなのです。ボローニャのパッケージング産業というのは非常に有名なのですが、金沢でいうと、渋谷工業さんがやられているようなボトリングやパッケージングの分野でたくさんのメーカーが競争しているのですが、同じものを作っての競争は絶対にしないのです。あるメーカーがトイレットペーパーをパッケージングする。すると、別 のメーカーはティーバックのパッケージングをする。また別のメーカーは今度はコンドームのパッケージングをするとか、いろいろな種類のパッケージングがいっぱい出てきて、決して同じものは作らないというやり方をするのです。そこにはアイディアで競い合うようなかたちがあって、最終的には世界的な競争力を持つことになるわけです。  それを価格競争の世界で、より安いものを大量に作るという方向にいったのがアメリカ的なシステムだと私は思うのですが、それを際限なく繰り返していきますと、結局、世界のどこでも安ければいいと。つまり、今のユニクロ的な物づくりになっていくわけです。それをやりますと、今、日本の産地で中国ないしアジアの産地と競争できるようなところはほとんどなくなってしまうわけです。ですから、それぞれの都市の中で、いかに成熟した物づくりの方向へ向かうのか。それが今の時代だと思います。  そうしたときに、それぞれの都市が何で自分のところを差別化できるかということがあると思うのです。例えば京都の場合に、伝統産業がある一方でハイテク産業がある。我々が学生時代、任天堂は大学生が就職するところではなかったのです。花札しか売っていなかったのですから。それが今や世界的な情報産業の先端を走っていくようになります。これは明らかに大学、研究所、それから高度な技術者を養成するようなシステム、こういう教育・研究に京都というところは独自な強みがあるので、絶えずそこから出ていたわけです。  例えば、今お話が出た村田製作所は、もともとは福井の越前陶器を作っていた方なのです。それが京大の研究所と一緒になって、オールドセラミックからニューセラミックにいった。この分野では京セラが先行していますが、京セラはニューセラミックを構造体にして使ったのに対し、村田製作所はそれを電子部品の本体の中に作り込んだわけです。ですから、セラミック電子コンデンサーというのが売りで、今や携帯電話の心臓部は全部村田の製品で作られているわけです。そういうかたちで差別 化していったわけです。そのときに、大学や研究所が大きな役割を果たしたのです。イタリアで見ますと、それぞれの都市に産業と結びついた教育システムというものが非常にうまくできています。  実は金沢も、そういう点で見ますと、明治の早い時期から工業専門学校を地元の有志の人たちが誘致運動をしました。今の県工といわれている工業学校がありますが、これは当時、日本で最初にできた工業専門学校です。なぜできたかというと、ここはいわゆる江戸時代から美術工芸が大変盛んで職人さんたちがたくさんいて、それこそ百万石のなせる技ですが、加賀藩細工所に日本中の名工を集めていたわけです。こういう人たちを中心にした厚い物づくりの基盤があった。それが、江戸時代が終わって明治になると、美術工芸品を買う顧客の層がいなくなったので、今度は地元が焦って、何とかしなければいけないというので、その美術工芸的な要素を学校制度で立て直そうとしたのです。それで、インダストリアルデザインを早くから導入して、工業専門学校としてそれを作らせた。最初、地元は美術学校が欲しかったのですが、単なる美術ではなくて、それと近代工業を結びつけるようなインダストリアルデザインというところへもっていったわけです。これが次第に全国へ広がっていくのです。  ですから、金沢は保守的なように見えて、実はそういう意味でいくと、教育制度を作って人材を養成するという点では、明治の初年はずいぶん頑張っている。今に至っても、金沢にたくさんの大学や教育機関があります。この力というのは金沢の経済が危機に立つたびに必ず大きな役割を果 たしたと思うのです。例えば、金沢の伸び盛りの企業といえば、IOデータの細野さんという方がおられます。細野さんのようなパソコン少年(今はパソコン中年ですが)が出てくる、金沢というところから見ると大変異色な人のように思うかもしれませんが、実は午前中お話しになった水野先生がおられる金沢工業大学は、工業大学の単科大学では日本で一番学生数の多い大学なのです。そういうところが金沢にあるのです。しかも、そこで早くからコンピュータを導入していましたので、細野さんは自分の仕事が行き詰まったときにはそういうところで研修を受けることができ、そこからコンピュータの周辺機器をやるときっと当たるというアイディアを得てくるわけです。  ですから、情報がたくさん集まってきて、教育システムをしっかり作っているところは、危機のときに、地元から集まってきた新しいアイディアを持った人たちに新しい物づくりを可能にする力を与えるのではないか。その面 から見ると、金沢の経済人は事業に成功したら学校や美術館を造りたがるということがよくあるのですが、学校や美術館を造りたがる経済人というのは大したものだと思うのです。そうしたかたちでノウハウを次代に残す、あるいは伝える。何かあったときにそこから新しい産業を生み出すようなものになっていく。そのような知恵がこの町にあるなと思っています。  アメリカに比べますと、熟練した労働力のようなものは職人的物づくりと深い関係があるのではないか。京都はその点でも同じですが、大阪はどうですか。
(猪木)どうでしょうか。伝統的な工芸技術も含めて熟練の点に関して、私はおもしろい経験をしたことがあります。冒頭に申し上げたように、17〜18年前に私はタイとマレーシアの同じ工場に何度も通 って聞き取り調査したことがあるのですが、当時、例えばディーゼルエンジンの部品を作るとか、工作機械を使って金属を削っていくというタイプの仕事はすでにタイでもマレーシアでもしていました。しかし、当時はかなり精密度の高い金型に関しては、日本から持っていかないとどうしても対応できないといわれていました。私が申し上げたいのは、熟練や技術というのは一人の人間が上達していくという側面 と、佐々木さんがおっしゃったように、世代を超えて、社会が教育訓練のシステムとしてどれだけ厚みのある技能を持っているかということと、非常に深く関係していると思うのです。  金型の例に戻るのですが、最近は、ご存じのように、我々は金型が生み出したものに囲まれて生活しているようなもので、びんからプラスチックのペットボトル、もちろん金属もそうですし、自動車、家電製品の外側は金型で成形するものがほとんどですから、金型というのは文明の基礎になっているといっても言いすぎではないと思います。  その金型を作るのにも工作機械を使って削るわけですが、最後の仕上げをやるのは仕上工です。私が回ったのは1980年前後の日本の工場とタイ・マレーシアの工場ですが、日本の場合は仕上工というベテランの熟練工が機械で削った部分に関して、要するにミクロン単位 の話ですから手で最終的な仕上げをする中小の工場が多かったのですが、その作業がかなり難しい。NCの数値制御の工作機械が入っても、最終的に手作業で微妙なところでわかる人がいる。当時のタイ・マレーシアにそういう職人層が育っていなかったということだと思うのです。  ところが最近は逆のことがいわれています。つまり、20年以上たってくると、そういう熟練工が東南アジア等々で育ってきた。逆に日本の方が熟練の職人層が薄くなってしまって、そういうことができなくなった工場も出てきている。それはもちろんプラスの面 とマイナスの面の両方があると思うのです。文化という問題もあると思うのですが、時間をかけないと到達できないような技能・技術のレベルがある部分で必ず存在して、これは新しい分野へのシフトという点で追い抜けない側面 があるのです。技術の飽和点みたいなものがありますから、成長が止まったところであとから追いかけてきた国なり工場は追いつくことができます。追いついた時点でどちらが勝つかという競争になるわけです。そして、時間がもたらした蓄積を持っているところは幸いにして勝つというような構造もできています。プラスの面 というのは、そういう技術を持っているところは追いつかれると別のところを探さないとだめだということになります。  今、東アジアの勢いのいい国、例えば端的には中国がそうですが、今まで製造業で日本が強かった分野をはるか昔に取ってしまっているわけです。日中双方がお互いに飽和点に達した技術に到達しているとすると、日本は別 の道を探さなければならないという関係になりますから、のうのうとしていられないということと同時に、そういう厚みを持っているところは、次のステップに踏み出すことができる可能性があるということだと思うのです。  私が申し上げたのは工作機械の例ですが、NC工作機械等にかなりの部分が置き換わってるということは事実なのですが、置き換わると同時に、汎用機といいますか伝統的な古いタイプのNCの付いていないような機械の技術を持っている人がゼロになっては困るわけです。ある程度熟練工が社会的に存在してくれないと、文化が成熟すると多様化したいろいろなものを求めることになりますから、それに対応できるような水準に達した職人の社会的グループみたいなものが必要になる。メカトロニクス化というように置き換えると、機械よりもむしろ電子系統の技術が尊重されると一般 論としてはいえると思うのですが、技術は多くの場合、積み重ねです。もちろん時計のように、ゼンマイ工が非常に精緻な時計を作った時代から、液晶になってゼンマイ工の技術と連続性がないという分野ももちろんいくつか出てきます。しかし、多くの場合、基本的に新しい技術というのは古い技術に対して労働節約的になっています。伝統的技術は割合としては薄くて小さくなっているのですが、薄い部分を持っていないと致命的になってしまう。そういう構造になっている場合が多いと思います。  そういう意味でも、伝統的技能すべてをそのまま社会的に保護し保存することはなかなか難しいことだとは思いますが、残しておかなければならない。何をどう残すか試行錯誤が入るでしょうが、非常に大事な点ではないかと思います。
(佐々木)今言われたエレクトロニクスとメカニクスの結合する状態をメカトロニクスといいますが、今、ほとんどの自動機械はメカトロニクス化されていますね。メカトロニクスといった場合に、全部デジタルな制御でいけるかといった場合に、世の中はIT革命で、アナログ的な職人の経験や勘やコツみたいなものはどんどん陳腐になって、むしろITでほとんどのことができるという話になっているわけです。ところが、先程言った、例えばイタリアのハイテクの物づくりでいきますと、エレクトロニクスやデジタル化したところで機械を制御しているという割合より、一つ一つの機械部品の精度が高くて、それによって0.1ミクロンとかいうところを成し遂げるということがある。例えば髪の毛を4等分できる微細な技術をつくろうと思いますと、職人の経験や勘やコツしか頼りがないわけです。その地域や企業がそういう職人をいっぱい持っていないとできないということになる。ですから、実はハイテクの先っぽのところはやはりアナログで、人の知恵、経験や勘やコツで支えられている。  例えば、日本でも一番先端的な部品ができるのは東京の大田区だといわれています。大田区の職人さんたちはそういう物づくりができるわけです。それに比べると、金沢の今の物づくりというのは、東京の大田区と比べて十分だというわけではないですが、金沢型の経験や勘やコツを持った人たちがいます。そういう人たちの集団をこの町はこれから大事にしていくといことが、非常に意味があるのではないかと思うのです。  我々は15年前には金沢城の中で教育・研究をしていたのですが、残念ながらそこを追われまして今の山の中に金沢大学が移ったのですが、この明け渡した金沢の城跡にビルディングの本丸が再現されていたら、私は金沢の格は落ちたと思うのです。しかし、幸いなことに本丸を再現するのはとりあえずはやめにした。設計図がはっきりしないから、再現できないからやめたのです。それで、図面 のはっきりしている五十軒長屋と菱櫓を再現した。その再現にあたっては釘を使わない伝統的な工法を採用した。今、全国で城を再現するときは、消防法の関係があるので必ず近代建築になるのですが、それを避けたのです。これは金沢の見識だと思うし、後世が評価できる文化財として造ったことは、非常に地味な仕事ですが高い評価を与えられると思うのです。  問題は、それは職人さんたちの仕事であるということです。職人さんたちの仕事があるということは、新しい職人もそこで養成できるということなのです。そうしたアナログの世界を大事にしていくことを、この町が全国に示したということです。今や京都でさえ、京都が誇ってきた町並みが金沢以上の速さで壊れていっています。町家はどんどんなくなって、マンションがいっぱい建っており、伝統的な職人が腕を奮うチャンスがないのです。それに対して金沢は、そういうチャンスをむしろ広げようという努力をしていると思うのです。これは、古いことをやっているように見えて、実は一番新しいことをやっているのではないかと思うのです。人間が自分の体に備わった五感を生かして物を作っていく。デジタル化されたデータだけに頼らない。それがこれから先に新しい物を作っていくアイディアになっていくと思うのです。  というのは、IT化された世界で一番大事なのはやはりコンテンツなのです。コンテンツというのは往々にして芸術です。コンピュータの画面 上に出てくるさまざまなデジタルアートというのはやはりアートなのです。デジタル技術を使うけれどもアートな感覚を持っていなければだめで、そうしたアートというのは金沢では工芸というかたちでずっと伝わってきています。ですから、伝統職人というものを古い職人だと思わないで、そこから新しいデジタルアートの時代に何か作り出すことができるような新しい職人というかたち。こうすると結びつきが出てくるのではないかと思うのです。それが今の時代に金沢が金沢たるゆえんなのではないかと思います。  大きな日本経済の転換の中にある今、京都や金沢という町が歴史に責任を持つというのは、町としてはぜひともやらなければいけない仕事ではないかと思うのです。この「歴史に責任を持つ町」という命題は、亡くなった安江良介(岩波書店の社長)さんが出されたものです。安江さんのことは金沢の皆さんは非常によくご存じですが、安江金箔のご子息で、金沢大学を出られてから岩波書店で活躍され、大変惜しまれて亡くなられました。この安江さんが亡くなる前に金沢の経済同友会に託された言葉、あるいは金沢の市民に託された言葉が、「歴史に責任を持つ町」でした。この町が世界的なスタンスで金沢ラウンドのような会議を続けて開催してほしいと言われて、実はそれが遺言になってしまったわけです。もっと長いこと生きてほしかったのですが。  残された我々は、その言葉の意味をめぐって、ここにおられる福光さんたちといろいろと考えたわけですが、1つは、金沢型の職人経済という古いものをうまく伝承しながら、そこからもう一度新しいものを作っていくことがこの町の責務ではないかと思っているのです。

(猪木)先程、少し極端な表現でしたが、「閉じた社会」の利点といいますか、マイナスの面 だけではなくて、いい面もあるということを申し上げました。町のことを心配し、あるいは将来どうすればいいかということを考え、技能の伝承自体もそうでしょうが、直接コミットする人たちがおられるということが、別 の言い方では「閉じた社会」ということだと思うのです。今、佐々木さんがおっしゃった責任ということでいえば、コミットしない人は責任を持ちませんから。ツーリストはその町を一時的に訪れているだけですから、その町のこと自体は考えずに楽しむだけです。しかし、「閉じた社会」には、そこにコミットしている人々がおられることは非常に重要な点です。  先程、大阪はどうですかと言われたのですが、大阪の財界の方々も我々学校にいる人間も、大阪の将来のことをいろいろ議論する機会があるのです。金沢が明るい将来の話を考えておられるときに、大阪の少し暗い話を申し上げるのは申し訳ありませんが。大阪をお調べになるとわかると思いますが、都市というのは盛んなときと、衰退し、そして何かショックがあって元気になるというのを繰り返すようなところがあります。大阪の場合、大阪城を建てたあたりにはたくさんの職人が集まって人口がかなり多かったのですが、17世紀の後半ぐらいから一時的に衰退し、また増えだして、18世紀の中ごろあたりにピークの40万になります。かなり大きかった。商人が町の中枢にたくさんいたわけです。  その後、大阪は衰退して明治の初めぐらいにはかなり弱くなるのですが、昨日、短いご挨拶を申し上げたときに触れた点ですが、「東の渋沢、西の五代」といわれる五代友厚が当時の大阪の商法会議所に会頭で来て、衰退の原因を鉄道の開通 との関係で調べようと、物資がどういう動きをしているか、そして今後どういう動きをするかという意見書を書けと会頭として命令するわけです。その資料が今でも残っているのです。非常におもしろいのは、今、大阪に起こっている衰退の一番大きな原因は新幹線と航空路の開発だと思うのです。新大阪は梅田から離れたところにあります。あんなばらばらでセンターがない町はだめだと経済的な側面 からいわれますが、口の悪い人は「新大阪は東京駅の西口になってしまった」と言います。  確かにそういう面があります。昔、私が学生のころは、東京に行くのに、「はと」「さくら」「つばめ」というような旧東海道の列車に乗って大体7時間ぐらいかかったのですが、今は大阪と東京は2時間半です。ということは、ビジネスマンにとっても、我々研究者にとっても、東京に行くときには大体日帰りをするわけです。泊まると翌日は一日つぶれてしまいますので、最終で帰るというようなかたちになっている。ですから、時間距離で東京が大変近づいてしまった。  もっと極端な例は、中国・四国・九州地方の方々と大阪・東京の関係では、昔は小倉から東京に行くのに一日かかりましたから、これは大変な仕事だったわけです。ですから、一応大阪がビジネスのセンターとしての役目も果 たしていた。それが、空路が開発され飛行機がたくさん飛び、新幹線ができというので、大阪は機能を失ってしまった。これは非常に悲観的な材料ですが、大阪衰退の大きな原因だと思います。  それと似たことで、当時、東海道線が全線開通していませんから、北陸、北海道、東北の物資は日本海をずっと回って、敦賀を通 って、山口県の方から瀬戸内海を通って大阪に来ていたわけです。私は疎開中に滋賀県で生まれましたので大津はわりに縁の深いところですが、トンネルができていないときには、北陸からの物資を敦賀で下ろし、長浜あたりから湖を渡って大津につけて、そして京都・伏見の方に回して大阪に運んでいた。ないしは北前船といいますか、山口を通 って瀬戸内海を通って運んでいた。当時は北陸線の一部が開通して列車は岐阜ぐらいまで来ていました。ところが、その後、岐阜、関ヶ原、京都あたりが開通 すると、大津は見事に没落して単なる通過駅になってしまうわけです。  それを憂えてといいますか、ある程度予測して、五代友厚は「物資の動きがどうなっているか正確なデータを集めてくれ」と。そして、もし北陸線が開通 し東海道線が京都と岐阜・関ヶ原あたり開通してしまえばどうなるかということを予測して、その対応策を考えなければいけないと考えていたのだと思います。はたして開通 後は大津はもちろん大阪も商業の一部が弱くなってしまうわけです。  それから、だめになったと言いながら、大正から昭和の初期にかけて、今度は静岡の生まれの人ですが、関一(せきはじめ)という東京高商の先生をされていた方が大阪の市長になって来られます。彼は社会政策の専門で、大阪の港湾を整え、市営住宅を造り等々いろいろなインフラを造った有名な市長さんです。それでよくなりだしたのですが、戦争が起こります。戦争というのは緊急事態ですから、中央集中になります。ということは、1941〜45年あたりで大阪が人的資源、産業の中枢の両面 で見事に東京に吸い取られ、また大阪はひどい空襲を受けて、終戦直後は完全に疲弊してしまうわけです。  今また大阪の復興ということがいわれているわけですが、都市というのは産業の構造が変わるだろうし、交通 のシステムも変わるということです。おそらく北陸新幹線によって金沢が将来どのような影響を受けるかということを研究しておられる方がおられるかもしれませんが、そういう外的な要因も含めて、いろいろなショックで衰退していく。おもしろいのは、そういうときに現れる人物というのは、大阪の場合はわりに外から来た人なのです。今度、太田さんが知事になるときに意見が2つに分かれました。「太田房枝候補はパラシュート候補だからあれは大阪人ではない」と一部の人は文句を言ったのです。彼女が知事に選ばれて評判はどうかわかりませんが、先程のコミットする人がいるというのが大事だということが重要なのです。コミットして責任を持つ層というのは不可欠です。ツーリストが市長を選ぶわけではないですし、そういうシステムで選ばれた市長や知事はろくでもないと思いますから、やはりコミットは大事なのですが、外からの人材なり外からのショックみたいなものを吸収するような度量 も必要なのではないかと思います。  復興するという例では、大津は見事に没落したと申しましたが、最近、大津は復興しているのです。30数年前に湖西線もできて、東海道のサービスが非常によくなった。新幹線は止まりませんが、京都からもすぐです。それでオペラハウスができました。このオペラハウスがまたすばらしい傑作だと思います。私はクラシックが大好きで、あまり上演の頻度は多くないのですが、そのオペラハウスで何かいいのがあると必ず行くのです。いってみれば夢のような話といいますか、私の自宅から自動車で30分ぐらい行ったら、それこそボローニャオペラも来ましたし、ベニスのフェニーチェオペラも見られました。そういうものが楽しめるような世の中になったわけですから、時代は変わったと思うのです。  私が申し上げたかったのは、いいときもあれば悪いときもあるということです。ですから、悪いときをどのように生かすかということに関しては、単なる閉鎖性だけではなく、外からのショックを吸収する度量 も必要なのだろうと思います。

(佐々木)今言われたこととの関係でいくと、北陸新幹線はまちがいなく富山までは来ることになって、その先、おそらく政治決着で金沢までは来ると思うのです。これは21世紀の早いうちに実現する。そうなったときに、大阪や名古屋の二の舞を金沢がするかどうかという問題があるのです。結局、いくつかの大企業は、銀行にしろ新聞社にしろ、大阪に本社を置いていたわけです。しかし今、大阪本社は実際は名ばかりになってしまって、重役は全員東京に住んで、東京で意思決定をするようになったのです。そのことが大阪の長期的な地盤沈下になってしまっている。ひどい人に言わせると、大阪はサントリーなどの水もの産業しかない、情けないというわけです。結局、今は関経連の会長は電力しかなくなってしまったわけです。製造業はほとんどなくなってしまった。このように企業人、経済人がどういう選択をするかということは、新幹線が通 ったときに大きな問題になると思うのです。  実はそういう問題について、以前「フードピア・金沢」に鶴見和子先生が来られましたときに、内発的発展論という議論を私は大いにさせてもらったわけです。脱線しますが、鶴見さんのような大学者を前にして、まだ30代の若造だった私は「鶴見さんの内発的発展論には都市論がない」という話を吹っかけたことがあるのです。  鶴見さんの内発的発展論のポイントは、定住者と漂泊者が地域をよくするのです。定住と漂泊という2つの相異なるファクターがうまく出会って、それがミックスしたときに地域は発展する。つまり、定住者というのは土のようなもので動かないわけです。漂泊者というは風のようなもので、あるときふっと吹いてきてはいなくなってしまう。しかし、その風がないと土は新しくならないのです。その定住と漂泊の中間にあるような一時定住者、一時漂泊者はもっと大事だと。私のことを言われているのかなと思いましたが、そういう定住と漂泊の関係が大事だと言われました。  これは、域内循環と域外交流というように言い換えてもいいのです。定住者というのは今は定住法人ですね。金沢にあって金沢の経済にコミットしている定住法人が、漂泊者という新しい風をうまく受け止めながら、しかし、引き続き金沢で頑張って、この金沢の土地を変えていこうとする。それが、新幹線ができたから一緒に風になって吹っ飛んでいってしまったら、金沢経済は空洞化して藻屑になってしまいます。先程言った職人的・伝統的なものを近代化するという問題と、グローバリゼーションの関係からいけば、企業はどこにいても同じように活動できるのだということで、定住という問題です。この地域にコミットしていく企業の数が減ってしまうと、金沢は残念ながら長期衰退に陥ってしまうかもしれない。つまり、絶えず危機をばねにして、新たにここの地域にあるものを再生していく。これは定住者である定住法人(定住企業)の責任である。これが長らく金沢という町の発展をずっと導いてきたわけで、その中には外部から金沢の地に来られて、そこで根づいた方もいるわけです。もちろん、代々金沢で仕事をされる方もおられます。  そうしたシステムというのでしょうか、これは金沢の内発的発展というかたちで、鶴見さんや私、あるいは宮本先生がずっと金沢らしさという点で言ってきたことですが、それを今後もさらに発展させたいと思っているわけです。猪木さんは、それこそエトランゼですから、金沢を外から見て、辛口、甘口何でもいいですが、最後に何かメッセージがありましたら、一言どうでしょうか。
(猪木)そうですね。メッセージを申し上げる前に、一点付け足します。最後に佐々木さんが触れられたように、大阪の場合、本社機能が東京に移ったというのは60年代、70年代にすごかったわけです。社会的な現象として非常におもしろいと思ったのは、本社機能を移転したところは商社や銀行をはじめたくさんあったわけですが、その理由を調べたアンケートやインタビューを見聞きしたときのことです。「行政の中心が東京だから東京へ移した方がいいのだ」と言われたことがあります。しかし、規制の問題と絡みますが、実は行政が東京にあるから移るという理由は本当に少ないのです。最大の理由は、「ほかの同業他社が移しているから行かざるをえない」と。言ってみれば、face to faceのコミュニケーションをするために、いくら電子技術が発達しても、会って話をしないと重要な情報は伝わらないので移らざるをえなかったという理由を挙げた企業が圧倒的に多かったということなのです。  ということは、本社機能があるところまで移りだすと、社会現象というのはそういうのが非常に多いのですが、ある臨界点を過ぎるとほとんど全てが移ってしまう。これはいかなる人間の力をもってしても、それを戻すことは普通 の平和的な力では起こりえないことなのです。できることとできないことがありますから、今申し上げた理由で本社機能が移ってしまったことは、ゆくゆくはいろいろな交通 網の発達も影響するでしょうが、起こってしまったということだと思います。  最後に、金沢に関してとおっしゃいましたが、大した知恵はもちろんないのですが、都市の規模の問題とか、そこに伝承されてきたものなどを生かしながら、私は経済ですから経済的な側面 ・技術的な側面からしかものを見ることができないのですが。そして、先程の9月11日のエポックの話ではないですが、国家が何をしてくれるとか、突然英雄が現れて何かとてつもないアイディアで金沢、大阪を導いてくれるというのではなくて、一番議論としてこれまで欠けてきたものは、国家でもない、個人でもない、真ん中のものです。それは、経営者団体もそうでしょうし、労働組合など伝統的にいろいろなものがありますが、今いわれているNGOとかNPOというものも含めて、中間的な組織がこれから我々の生活の様々な側面 で重要になる。これは国家の重要性がなくなると申し上げているわけではなくて、その中間的な組織、地域住民のいろいろな活動も含めて、それがますます重要になってくる時代になるのではないか。  むしろ問題は、中間的な組織の主張が強くなることをどのようにプラスに生かすのか。摩擦も大きくなると思うのです。みんな集団として権利・主張をするわけですから。しかし、非常に明るい点は、これも日本の伝統の中にもあったわけですが、中間的な組織の中で個人がもまれるといいますか、公共の事柄に目を向ける。今は私の住んでいるところなどは、子ども会も町内会もほとんどありません。京都などは昔、子どもを集めて8月23〜24日ごろに地蔵盆があったのですが、そういうものがなくなってしまった。最近はマンションの住民の管理組合みたいなものが別 のかたちで出てきていますが、そういうところで我々が公共の事柄を議論するという訓練をせざるをえなくなるのではないか。そういう意味で都市というのは、密集、集中しているがゆえに、そういう団体がたくさんできて、お互いに情報交換し、お互いに規制し合うという姿になっていくのではないかと思います。そのための公共的空間をできるだけ多く造るということが文化的発展にとっても非常に大切だと思います。
(佐々木)もうほとんど時間をオーバーしているので、私も一言だけ。つまり、私は金沢の経済が、個々の企業が自らの利益を追求するだけではなく、金沢という都市をよくするために努力してきた歴史があると思うのです。金沢の文化的な厚みを増すことが、トータルで金沢の新しい企業の再生につながる。そこが他の町にない特徴だったと思うのですが、そういうものを今一度、この危機の時代にあって、金沢が世界に投げかけるメッセージとしていきたいなと思っています。どうもありがとうございました(拍手)。
(米沢)猪木先生、佐々木先生ありがとうございました。最後は佐々木先生に結論をおっしゃっていただいたような気がします。安江さんがおっしゃった、「歴史に責任を持つ町」に住む住民として、また、内発発展論の定住者としての法人住民として、私自身いろいろな話を重く受け止めております。どちらにしても、町の個性といいますか、金沢らしさを維持し続けるまちづくりを一生懸命、企業人がすることによって、私たちもその中で大きなヒントを受けることができる。今までもそうしてきましたし、これからももっと頑張って、そうすればするほど、その中で今後の企業の運営のヒントが見えてくるのだということをあらためて確信させていただきました。そういう意味で、法人住民として、この金沢のまちづくりにあらためて頑張ろうと思います。本当に大きなお力をちょうだいしたと思います。皆さん、あらためてお2人の先生に拍手をお願いいたします。ありがとうございました(拍手)。